2011年5月16日

夢が語ることは?



今朝方、こんな夢を見た。

私は、友人が運転する車に一緒に乗せてもらい、少し小高いところの細い道を走っていた。下は深い大きな湖のような水があり、ガードレールも何もないので、一歩間違えば水の中にまっ逆さまというような、とても危険な道だった。

前方から対向車がやってくるたびに、友人は道の端ギリギリのところまで車を寄せて、対向車が通れるようにするが、隣に乗っている私は手に汗握る極度の緊張状態になっていた。こちらのタイヤがもう1センチ左だったら、完全にバランスを崩して下の水の中に落ちてしまうというような瞬間が何度もやって来る。

私はそんな運転はあまりにも危険なので、やめて欲しいのだが、友人は慌てる様子もなく、ギリギリの運転を続けている。

角を曲がるときはもっとすごい状態になり、前のタイヤは完全に道路をはみ出して車体の半分近くが宙に浮いている。下には深い水が待っている。その瞬間、私はもう今度はダメだと思い、たまりかねてドアを開けて飛び出してしまった。

その直後、友人は車ともども水の中に転落した。少しの間、私はどうしてよいかわからず、それを見ていた。唖然としているというか、静観しているような感覚。

その後、我に返り、私は慌てて大声を出して周りに助けを求めた。その間にも、車はどんどん沈んでいく。助けはすぐには来てくれない。

沈んでいくその様子を道路の上から見ている私。自分はこうして無事であること、他人のことより自分の命が一番大事だから、自分を守るために勝手に車から飛び出してしまったこと、落ちた彼女をただ上から見ているだけの自分。

そこにはゾッとするほど無関心で自己中心的な自分がいる。それに気づくと彼女に対する罪悪感が押し寄せてきて、私はその罪悪感に押しつぶされそうになった。

一方、それを見ているもう一人の自分がいた。そのもう一人の自分は少し上から一部始終を見ており、友人の立場と私の立場の両方を同時に感じることができる。私が感じている罪悪感は、今水の中にいる友人にとって何の役にも立たず、何の意味もなさない。彼女の頭の中には、私がいるスペースなどない。

1つの出来事ということで状況を共有してはいるが、立場が全く異なり、直面している世界は切り離されていた。

そんな中、真っ先に救助にやってきたのは友人の父親だった。彼は魂のような存在で、水の上にいた。彼の娘に対する愛情はとてつもなく大きく、何かを大声で叫んでいた。

結局、友人は深い水の中に沈んでいく車の中から自力で這い出して、助かった。彼女の父親の存在が何かの力になったようでもある。しかし、それよりも何よりも、友人には生きる意志があるからこそ、自分で這い上がれたのだった。彼女がそれを選んだのである。

その後、彼女と私の付き合い方が変化した。


強烈な夢だった。

ふと思った。この夢が語ることは何だろう?

もし、ここに登場した人物が全て自分だとしたらどうだろう。

相手や対象を通して体験できる感情や心という深い水。それを恐れて避けようとする自分、逃げ出す自分、直面するときを密かに待っている自分、飛び込んでもがく自分、避けたゆえにもがく自分、もがく自分を助けようとする自分、体験から学び取ろうとする自分、肉体の制限を超えた部分の自分、全てを静観する自分・・・

このどれもが自分の中にあるとしたら、私は今どの部分の自分を受け止め、どの部分の自分と手を組みそれを味方に引き入れ、どの部分を育ててあげたいと思うだろうか。

罪悪感は自然な反応であるが、それが誤った解釈となったとき、苦しみへと変化するのではないだろうか。しかし、それさえもプロセスの途上にあり、さらにその苦しみを離れた部分から見ることができたとき、初めて自分というもの、さらには人間というものへのより深い洞察を得ることができるのではないだろうか。

自分の弱さを受け入れ、理想や願望を持っていても結局は「普通の人間である」という事実も抱きしめたとき、自分の中で柔らかい何かが広がる。相手には相手の立場があり、みんなそれぞれに一生懸命生きようとしているということを理解できたとき、自分と他者との間に柔らかい何かが広がる。

罪悪感からの苦しみを、そのような洞察から味方に変えて引き入れたとき、それは同時に自分の中で、一種の力へと変化するのではないだろうか。夢の最後に、友人と私の付き合い方が変化したように。

0 件のコメント: