2011年2月26日

点在する時間 - 無から無への感覚




これが、今の私が捉える時間の感覚。

時計の時間は過去から未来へと線状に流れているが、最近の私の日常の行動は、こんな風にランダムに飛び散っている。

中心が自分のハートで、そこから今やりたいことに意識を向けたときに、ハートが応えることをやる。自由業なので、時間の過ごし方を自分の意志で決めることができるのは有難いことである。

さっきまでは台所で何かしていたのに、今は机に向かって別のことをしている。一時間後はジムで運動しているかもしれない。気がつくと、短い時間の単位で色々なことをしている。ただし、「ながら」で複数のことを同時にやらない。

そのときまたはその日、ふとやりたいと思ったことを優先させてやるようにすると、集中できて、すっぽりと穴の中に入り込んだように、時間の感覚がなくなる。没頭しているときは、お腹が空いていることにも気づかない。

以前は、「やるべきこと」のリストを作ってみたり、頭の中で順番を決めて取りかかったりしていた。線状の流れの中に物事を置いており、いつも頭の中に終わったことや先のことがあれこれ詰まっていて、やりたくないのにやらなければならないと思うと気が重くなり、何かに追われるような日々にストレスが溜まって、時間があっという間に過ぎると感じていた。

線状とオサラバすると、何かからスポッと抜けたような感覚で、異空間に滑り込む。ひとつひとつ、今与えられていることをハートは知っている。それを直感という形で受け取ってフォーカスしている間、時間が止まったような感覚になる。むしろ、同時に様々な次元に繋がった空間にいる感覚になる。

自分が満足できるまでやったと感じられたら、先のことを心配する必要もない。そのときまたはいつか、どこかの部分でしっかり消化されることを、別の部分の自分が知っているため満たされ、結果的に質のよい時間になる。

私はこれをトータルコミットメントと呼ぶことにした。「やらなければならない」と思う部分がなく「やりたい」または単に「やる」を優先しているため、積極的に関わることができ、純粋なクリエイティブなエネルギーが動き出す。そこには自由という空間があり、自分の中から愛がにじみ出てくる。しかも、頭の中は思考が居座ることもなく、軽くいられる。

そう、頭の中は常に空っぽに近いのがいいのだろう。シアトルに住む臨済禅のアメリカ人和尚が昔こんなことを言ってたっけ。「Just clean to clean, wash to wash.」例えば、窓を拭くときは一心に窓を拭き、ジャガイモを洗うときは一心にジャガイモを洗うということ。禅において、作務(さむ)は動く瞑想なのだろう。

ふと、時間を絵で表現してみようと思い、出来上がったのが上の絵である。ただ感覚だけを使ったので、頭で解釈する必要もないだろう。

中央の無の空間から別の無の空間へと一瞬で飛んでいくイメージ。無が点在しており、同時にここから何かが生まれている。何だか面白いものが出来上がった。

0 件のコメント: