2010年9月19日

「それ」の存在


突き上げる想いや衝動、わずかに感じる傾向性、風に感じる気配。これらは言葉ではうまく説明できないが、感覚はそれを捉えることができ、それが存在することを知っている。

「それ」は確実にある一定方向へと流れていて、その入口へと手招きしているのを感じることができるが、目には見えないことなので、直接つかみ取ることはできない。しかし、「それ」を捉える上で、体はとてもよい媒体になり得ることを知った。

足に意識を向け、足から伸びる根のイメージを絵にし、その後、音楽に合わせて踊るなど体にフォーカスを当てたエクササイズをした後、根のイメージを絵にするワークを今年の春に体験した。そのとき興味深い展開があったので、今度は自分でやってみた。今回も、先回とは違った形で、踊りの後に根の様子が大きく変わった。




踊った後の右の足の根は、はっきりと4つの方向に分かれており、同じ長さで4つの方向に伸びる足が歩いているような格好となった。さらに、真下に伸びるものと上に伸びるものとの、合わせて6つの方向に分かれた。

この4つの方向、さらに上下合わせた6つの方向は、日本からシアトルに戻った後、隣の敷地に立っているヒマラヤスギの木を感じ取って踊ったときに、自然に東・南・西・北・空・大地の6方向へと順に手が動いたこととつながった。動くことで、メッセージ性を帯びた何かが、私の中から自然に出てくる。

それは、客観的に見ているときも同様である。歩く足の絵を見ていて「Walk in Balance」という言葉が浮かんだ。訳すと「調和の道を歩く」ということになるが、調和の道を歩むことは、自分を取り巻くすべてと調和の中に生きることであり、この言葉は、ネイティブアメリカンの教えとつながる。

描いた4本の足は、足先の向きからわかるように、輪を描くように右回りに回っており、あらゆる生命のサイクルにも通じる。これをネイティブアメリカンは「Medicine Wheel」と呼んでいて、この輪は東、南、西、北の4つの方角からなっているということである。その方角それぞれに教えと学びがあるということであるが、この時点の私はそれが何であるかは知らない。

木を描いているときに、突然クモのイメージが浮かび上がったので、木の横に描いてみた。それを後で見てみると、クモは木と共に歩いているようである。クモは人生の糸をつむぐ創造の象徴。独自の創造力を使って調和の人生を編み出すことを、この私という木は望んでいるのだろう。

右足の根の絵という形で意表を突いてやってきた「それ」が、まるで自ら語り出したかのように、このような形で自分の中から出てきたことに驚いた。それは、さらに左足の絵からも異なる形で姿を表わした。



左足が根となる木の上部がパカッと開いて上から黄色い光が入ってくるイメージの後、木が半分に割れて、上からの光が通る断面図のイメージが浮かんだ。根元近くは空洞になっており、どこかにリスの気配を感じた。このときは、リスは外で木の実などを集めていてそこにはいないが、この穴をねぐらにしているようである。リスにとってこの穴は帰って来れる安全な場所であり、一方、空洞という形で現れたこの部分は、体にすると子宮にあたることに気づいた。

私の一部であるリスは、冬に備えて外でせっせと木の実を集めて、穴の中に蓄えているようである。リスが蓄えた木の実は情報や経験を象徴しており、それはやがて智慧として力の源となることを知っている。そのためには、集めたものをここでゆっくり消化する必要がある。整理がついてそのときが来たら、周りの人と分かち合うことができるだろう。リスは、そのことを教えようとしているように思う。

ただ感じたままに描いただけなのに、これらの絵を見ているだけで、自分の中から力が沸き上がってくる。

突き上げる想いや衝動、わずかに感じる傾向性、風に感じる気配。これらは言葉ではうまく説明できないが、感覚はそれを捉えることができ、それが存在することを知っている。体を入口として意識の中に入って行くと、頭の領域をはるかに超えた強大な力に出会う。

その力を感じ取ったとき、「それ」と呼ぶ「大いなる意図」は、私にとって大きな意味のある現実として突然目の前に出現する。

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