2009年5月3日

黄金の手

情報が氾濫し、私たちは知識ばかりで頭でっかちになってしまっているところがある。コンセプトを頭だけで理解してわかったような気になっているが、実は何か大切なものを忘れてはいないだろうか。

昨年の秋に日本で参加した自己成長のワークショップでは、体で感じ取ることが気づきをもたらし、それがどれほど大きな癒やしにつながるかを体感した。私にとってはまさに「目からウロコ」だった。

そのときの感動を分かち合うべく、先月、月例のサークルで、初めてグループワークのファシリテータをさせてもらった。

ワークのひとつは3~4人で一組になり、相手のエネルギーの特徴を感じ取ってみるというもの。私たちは日常において、「あの人は丸顔でちょっと剥げている」などと、目に映る顔や形で認識し、そこから「あの人は妻と子供を捨てた人だから」とか、「暗く何年も引きこもっていて、あの人は人格に問題があるのではないか」などと判断して相手を見る傾向にある。

しかし、それは外側だけのことで、それがイコールその人ではない。心の目が開くと、もっと深い本質的なものが見えてくる。これはそれを見るエクササイズである。

私が日本でこのエクササイズを受けたときに、ある方は赤と黄色の光輪を発した大仏の姿に見え、その方の体全体から強力なエネルギーが放射されていた。元気満々で病気などとは無関係の方なのだろうと思っていたところ、この方が元がん患者さんであったことを後で知って、びっくりした。

エクササイズをやってみると、このグループからも同じような驚く結果が次々に出た。相手から強烈な光を感じた人、独特な匂いを感じた人、観音様の姿と重なって見えた人、清らかなせせらぎを感じた人、白百合のイメージが浮かんだ人、若竹の色が見えた人など、全員がそれぞれ相手に対してはっきりとしたイメージを見たり感じたりした。みんなで体験を分かち合い、お互いにポジティブな結果に驚いた。

中でもひときわ感覚の鋭い方がいて、その方はAさんに意識を合わせたときに、「右手が金色に輝いて見えるんですけど、何か手にお仕事を持っていらっしゃいますか」と言った。Aさんは目を見開き、「えーっすごい!」っと叫んだ。

実際、Aさんはボディワークのお仕事をしている。みんなの体が少しでも楽になり、健康を取り戻せるお手伝いをすることが喜びであると、大変な努力をしてさまざまなヒーリング手法を学んだ末、あるボディワークと出会い、今では多くの人にワークを行っている。そのことは知らない方がAさんを見て、右手が「黄金の手」だと言ったものだから、Aさんの仕事を知っている人は、興奮と驚きで目を見張った。

単純なエクササイズだったが、結果は深い洞察を与えてくれる。それは、自分とは何者なのか、自分の本質とは何か、いかに生きるのか、ということ。

エクササイズ自体はそれで終わりだったが、実はこの「黄金の手」という言葉に関して、さらに驚くことが待っていた。

このエクササイズに参加したBさんは、ご家族のお世話にボランティア活動に、忙しい日々を送っている。専業主婦の彼女にとって、この黄金の手という言葉は特に印象深かったようである。

帰宅後、娘さんにその日あったことを話したそうである。
「ある方がAさんの右手が金色に輝いて見える、何か手にお仕事をもっている感じがするっておっしゃったけど、確かにAさんは手を使ってお仕事をされているから、それは本当に当たっていてすごいし、金色に輝いているって素晴らしいわ。誇りを持つようなお仕事をされていて、いいなあ」

すると、すかさず娘さんが言った。
「そんなことないよ。お母さんだってご飯作ったりお掃除したり、ちゃんと家のお仕事をしているから、手が金色に輝いているはずよ」

Bさんが、常に家族のことを考えて大切にしていることは、Bさんを見ていればわかる。しかし、悲しいかな、家事は仕事のように、対価が目に見える形となって現れるものではない。主婦の仕事がどれだけ地味なものか、無意識のうちに当たり前とされてしまうことに、私もときどき悔しい思いをすることがある。

Bさんは、娘さんとのこの会話を、後日ある集まりで会ったときに話してくれた。私も周りで聞いていた人も感動して、涙ぐんでしまった。

「ティーンエージャーで普段生意気なことばかり言っていて、人の話を聞いているのかいないのか、私にろくに返事もしないこともあるけれど、その娘がそう言ってくれたのよね。嬉しかったわ~」

お母さんも黄金の手を持っているのよ、とすかさず返した娘さんのその言葉は、まさに母親への愛の言葉だった。

ちょっとしたエクササイズが思わぬところにまで広がって、大きな感動を与えてくれた。

みんなが光の存在。そのみんなが愛で繋がっている。なんて素晴らしいことなのだろう。

初めて試してみたワークから、私は学ぶことばかりだった。同時に、体感することの大切さを再確認した。観念や理論を頭で理解するだけでわかったつもりでも、それはどの程度理解したことになるのだろうか。

ものを食べるときも、鵜呑みしたものとよく噛んだものとでは消化の度合いが違う。感情を味わい、それが深く中まで浸透しなければ、消化されたとは言えない。栄養になるのはそれからである。

そこから気づきと癒やしの道は、さらに奥深くへと入っていく。

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