2009年2月5日

荒御魂の力(2) ― 伊勢外宮

つい最近まで荒御魂(あらみたま)という言葉さえ知らなかった私が、なぜ今こんなことを書いているのか。

こういうことを「ご縁」というのだろうか。

実家がある三重県には伊勢神宮がある。小さい頃に家族と何度かお参りし、その後は受験前に「合格しますように」などと手を合わせて、自分の都合のよい時だけにお参りした程度だったが、なぜか数年ほど前から、私は帰郷する毎に伊勢神宮を訪れるようになった。

それでも、参拝するのは専ら内宮のみ。ご存知のとおり、伊勢神宮は外宮と内宮に分かれており、互いに離れた場所にある。外宮は周りに何もなく比較的ひっそりとしているのに対し、内宮前は飲食店やみやげ物屋が並ぶ「おかげ横丁」があり、いつも人で溢れかえっている。

伊勢神宮というと大半の人は、内宮だけをお参りすると思われる。私もその一人だった。御正宮の天照大御神の前で手を合わせて、その後おかげ横丁で食事をして赤福を買って、それだけで伊勢参りができたと満足だった。

ところが、昨年から急に外宮からお参りしようと思うようになった。伊勢神宮は外宮の後、内宮にお参りするのが正式な参拝方法だそうである。

この順序に従うことはもちろんのこと、私は外宮から内宮まで約6キロの道のりを歩いて、その間にある月読宮(つきよみのみや)もお参りしようと思った。どうしてそう思ったのかはわからない。しかし、自分の足で一歩一歩歩いてお参りすることで、誠意を示したいと思った。

お参りするタイミングは、ひょっとしたら指定されているのかもしれないと感じるようになったのは、その頃から。予定を立てようとしてもうまく行かず、行ける日は突然やって来る。

お恥ずかしいほどの遅起きの私が、その日だけは午前4時とか5時半にパッと目が覚め、その瞬間「今日伊勢へ行く」と心の中で宣言する。するとモリモリと力が沸いてきて、たちまち、はちきれんばかりに充電完了。

11月4日、曇天の日。神社仏閣は早い時間にお参りするのがよいと聞いたことがあるが、まだ寝ている両親を起こさないように、そっと実家を出て始発電車で乗り継いで外宮に着くと、時刻は既に午前8時45分だった。それでも、この時間はまだ参拝者はまばらである。

伊勢市駅から大通りを5分ほど歩くと、外宮につき当たる。外宮の正式名は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)ということは、昨年の春に初めて一人で訪れるまで知らなかった。祀ってあるのがどんな神様かなんて、もちろん知らなかった。こんなこと言ったら「おまえそんなことも知らんのか、勉強してから出直して来い!」とボカンと頭を殴られそうだが、外宮の神々様は私を拒むわけでもなく、優しく迎えてくれた。

鳥居を境として、向こう側はこんもりと木々が茂り、濃い紫色の空気に包まれている。手水舎で手を清め、鳥居をくぐるとひんやりとした霊気を感じた。辺りの空気が細かく振動しているようで、なぜだかわからないが途端に涙がこみ上げた。

私の心は喜んでいた。ここに来れたこと、今ここにいることがとても嬉しい。

神楽殿を通り過ぎ、奥に進むと豊受大御神(とようけおおみかみ)が祀ってある御正殿に着く。

ここに立った瞬間、強烈なエネルギーが頭の頂点から入ってきて、ご挨拶の言葉を述べたいのに、頭の中が真っ白になってしまう。同時に、久しぶりに会った親の懐で一気に緊張が解けて泣きじゃくる子供のような感情が沸き起こり、しばしただ手を合わせて涙した。

しばらくして、こんな風にいつまでも子供のように泣いていてはいかんと気を取り直し、手を合わせ直した。すると、自分の中からつらつらと祈りの言葉が流れ出てきた。

「豊受大御神様、わたくしアメリカのシアトルからやって来ました○×と申します。このたびはこの地にお招きくださいまして、誠にありがとうございます。再びこの伊勢の杜を訪れることができまして、この上ない幸せにございまする。わたくし思いまするに・・・」

あれれ?気づいたら、途中からこのような口調になっている。一体どうしたことか。後で思い返すと笑えてしまう。それでも、この変てこな言葉での祈りの間、涙が止まらなかった。

御正殿のすぐ向かい側には板のついたてがあり、そこに警備員が立って参拝者を見張っている。鼻水をすすりながら涙ぐんでいる私を見たら、きっと変なヤツかアホだと思うだろう。祈り終わったら、恥ずかしいので下を向いたままサッと立ち去った。

外宮には、その他に鎮守の神を祀る土宮(つちのみや)、風の神を祀る風宮(かぜのみや)、そして小高い丘の上に豊受大御神の荒御魂を祀る多賀宮(たかのみや)がある。春に訪れたときは、土宮で強烈なエネルギーが入ってきたが、秋にはなぜか風宮のエネルギーの方が強く感じられた。ちなみに風宮は、鎌倉時代の元寇の時、神風を吹かせて日本を守った神として知られているそうである。

次に、階段を上って丘の上にある多賀宮へと進んだ。私の前を、いかにも雑誌か何かを見てやって来たような若い女性の二人連れが歩いていた。昨年あたり(?)からスピリチュアルブームのせいか、伊勢神宮を訪れる若い女性が急増したようである。

丘の頂上に近づくと、一人の中年の女性がお参りしていた。彼女は普段着のままでかばんも持っておらず、他の参拝者とは全く異なっていた。私の目は彼女に釘付けになった。装いが違っているからではなく、彼女から発せられている何かが他の人とは全く違っていたからだ。鍼灸師か気功師かなと思った。

彼女は祈り終わって振り返ると、若い女性二人連れの後ろにいる私をちらっと見た後、立ち去ることなく、近くの木に両手を伸ばして体を付けたりしている。やっぱり変わった人。私は一人でゆっくり祈りたいので、その二人連れが終えるまで少し離れた所でぶらぶらしていた。

やっと自分の番になり、お祈りをして、さて戻ろうとしたとき、5メートルほど先で木を背にしてこちらを向いて立っていたその中年の女性が、少し怖い顔をして一点を見据えたまま、いきなり私の右肩の方を指差し、

「そこにお地蔵さんがいるの、わかりますか?」と言った。

「ひえー出たぁ~!」
私の後ろに霊が出たのかと、ぎょっとした。

そうではなく、彼女が指差したのは、私の右後方にある石だった。彼女はこちらに近づいてきて、その石へと案内してくれた。ちょうど御正殿の前にある平たい石は、なるほどその形がお地蔵さんのように見える。この地蔵石のことは、どこにも説明されていない。地元の人の間でのみ知られているようである。

「私はね、このお地蔵さんが門番みたいに、多賀宮さんをお守りしていると思うんですよ」

やっぱりただ者ではない、この人。

そこへ地元のおじいさんが近寄ってきて、私たちが立っている足元の石の上に五円玉を乗せて、手を合わせて行った。

「あなたはヒーラーですか?」また彼女は、いきなり私に聞いた。
「ええっ?いいえ・・・」

女性 「そうですか。いやね、あなたのオーラに感じるものがありましたから、お声をかけようと思ったのです」

私 「はあ~。実は私もあなたが気になりました。出ているものに感じるものがありましたから。鍼灸師さんか気功師さんかと思いました」(お互いに苦笑)

女性 「私は生まれも育ちも伊勢、そして嫁いでからもずっとここに住んでいます。きっと伊勢と何かご縁があるのでしょうね。もう何十年も毎朝散歩がてら、ここにお参りしていますが、最近は参拝者が急に増えて、週末になるとここに10メートルほど順番の待ち行列ができるんですよ。今までにない現象です。それも全国からおみえになるようで。先月は、北海道から来たというヒーラーの方に出会いまして、その方が書かれた本をいただきました。結構色々な方がお参りにみえるようで、私はそういった方にお声をかけるようにしているのです」

その後、私がどこから来たかや、これからどこへ行くなど軽い会話をしながら、少し一緒に歩いた。彼女は、別れ際に再び真顔になり、確かめるようにじっと私の目の奥を見つめてこう言った。

「目に見えないことが本当で、それが形になって現れたことが現実界で起こっていることです」

この言葉を聞いた瞬間、それは彼女の口から出ているのであるが、実は何かが彼女に言わせているように感じた。

豊受大御神の荒御魂を祀る多賀宮で出会い、丘の下にあたる多賀宮の境界ギリギリのところで見送ってくれた彼女。不思議な人だった。たった数分でも違っていたら、出会うことはなかっただろう。そう思うと鳥肌が立つ。

その後、勾玉池を見ようと外宮の入り口付近へ戻ったとき
「ごゆるりと」
という言葉が頭の中に入ってきた。

「はあ、ありがとうございます。でもまだまだこの先、回るところがありますもので・・・」と心の中でつぶやいた。

ここ伊勢神宮は、やっぱりこのような口調の場所なんだなあ。古い神様の世界だなあ。

それにしても、さっき女性が言った言葉

「目に見えないことが本当で、それが形になって現れたことが現実界で起こっていることです」

これは荒御魂からのメッセージだったのだろうか。

この先、この言葉が大きな意味を持って展開してくるとは露知らず、私は次の参拝先である月読宮へと急いだ。

<つづく>

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