2009年1月26日

電車は今日も走る

最近つくづく思う。人生って、次々と電車を乗り継いで行く旅みたいだなあって。ただし、自分で先の先まで全て計画したと思っていても、結局は進む方向も、行程も路線も、最初の計画とは大きくずれてくる。

今乗る電車だけがわかっていて、乗った時点ではどこで降りて、そこからどこ行きへ乗り継ぐのかもわからない。だから、あせってもジタバタしても仕方ない。今乗っている電車での体験や窓から見える風景を味わえばいい。そうしたら、いつか降りる駅がわかってくる。

私の場合、近所の路線で見慣れた風景を楽しんでいただけのときもあるし、環状線のようにグルグルと何度も同じ所を回っていたこともある。乗り間違えたかなと思ったこともあるし、時間待ちさせられてイライラしたこともある。途中からレールが大きく2つに分かれたこともあった。各駅停車、急行、特急、いろいろある。新幹線みたいに速いのに乗っていても、乗り継ぎ先からは鈍行になることもある。

そうやって、電車の旅は続く。長い長い旅。

ただ、ときどき不安になることがある。
「この電車はどこへ行くのだろう」
「乗ったはいいけど、果たしてこの電車でよかったのかなあ」
「あれっ?この線ってまだ完成していないのに、この線に入ってしまっていいの!?」

実は4日前、私はこれからの自分の活動のことを考えて、少し不安になった。今まで書いてきたように日記を続けて行きたいが、とても大胆で創造力があって、今の自分に満足していないもう一人の自分が頭をもたげ始めているのがわかるのである。

その朝、朝食の用意をしようと台所に入り、思った。一体自分って何者なんだろう。この突き上げる思いは何なんだろう。何を経験したがっているのだろう。もう一人の自分は、あんなことやこんなこと書きたがっているみたいだけれど、そんなことやっていいのかなあ。何だか常識を欠くようなことまで書きたがっているみたいだけど、こんなこと書いたら何て思われるだろう、などとあれこれ思い悩み始めた。

すると、りんごを洗ってまな板の上で切ろうとした瞬間、

「汝、臆することなかれ」

という言葉が頭の中に入ってきた。

「ええっ?・・・ハア、そうですよねえ・・・。ええっ何?この古めかしい言い方!」

一体どなたがおっしゃっているのか。ちょっと圧力を感じる言葉・・・。

でも少し安心した。私たち一人一人には個性があって、その個性を活かして自己表現することこそが、自分が創造して経験したいことなのだろう。思い悩みながらも、結論を出して選んでいく。それは、きっと誰でも同じ。自分の心の声に従って、勇気を出してどんどん進んで行けばよいのだろう。それが自分を生きるってことなんだろう。

そう、自分が乗った電車には、必ず車掌がいる。車掌は次の停車駅を案内し、駅に着くとドアを開ける。降りる人はもうご縁がなくなった人。乗ってくる人は、新しくご縁がある人。最初から乗り合わせている人もいれば、一駅だけの人もいる。

車掌は自分を導いてくれる守護霊/神やガイドのような存在。自分が心を開けば、車掌と話すことができる。車掌に聞けば、路線とその周辺のことをいろいろ教えてくれるし、乗り継ぎの案内もしてくれる。

心配することはない。

人生という名の電車は、車掌や乗り合わせた人々と時を過ごし、共に風景を味わい楽しむ場のようなもの。どんな景色を楽しめるかは、自分の選択による。勇気を持って行動する人が乗る電車は、きっと絶景を見せてくれるだろう。自分が楽しければ、車掌も乗り合わせた人々も楽しくなる。

そんな電車の旅はいつ終わるかわからないけれども、必ずいつか終着地にたどり着く。

「汝、臆することなかれ」

それは、私が今乗っている電車の車掌さんの言葉。ちょっと年配の方のようだが(笑)、そうやって励ましてくれる車掌さんがいるから心強い。

どの人の電車にも車掌は乗務している。そして、静かに見守っている。あなたが気づいていようといなかろうと、旅案内をしてくれている。大船(ではなく大電車?)に乗ったつもりで、のびのびと楽しもう。あなただけの風景を探しに。

車掌は複数乗務していることも多い。別の若手の車掌さんがこう言った。

「ただですねえ、居眠りしている人が一番困るんですよね。これはどうしようもないです。眠り続けて、終点まで乗り越してしまうんです。そういう人に限って、なぜ起こしてくれなかったって文句言うんですよ。そういう人には、降りた駅から逆方向に戻ってもらうしかないんですよね」

そうならないためにも、しっかり目を開けて、臆することなく、人生という旅の車窓に広がる風景を味わいたい。

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