2008年12月18日

もうひとつの結婚?

「今のだんなさん以外に、もう一人結婚してもよかった相手がいましたね」

ええーっ!?

沖縄に旅行中のある夜、旅のお相手のひよこさんと、ホテルの部屋でくつろいでいるときのことだった。ひよこさんは手相に詳しいということで、以前、遊び半分で、何人かで軽く見てもらったことがある。そのときに、私の結婚線をちらっと見たひよこさんは「あれっ?」と首をかしげて、「後でメールしますね」と言った。

夫のことで何かあるのだろうか、これから何か起こるのだろうか、そう思うと少し怖くなった。結局メールは来なかったし、今知る段階ではないのだろうと感じたので、流れに任せることにした。

知る準備ができたのは、岡部明美さんのワークショップに参加して、長い間自分の中にあった壁が破れ、壁の向こうで待っていた大切な自分の一部に気づき、大きな意識の変化が起こった後のことであった。

ひよこさんによると、手相というのは、ものすごい数の人の手相から集められた情報に基づく統計学だという。手相というと運命が決まっているかのように考えがちだが、創造する方の手の線は、どんどん変わるということである。まさに、自分の意志で道を切り開くのである。

過去の情報に関しては、幼い頃から今までに起こった大きな出来事の情報が、年齢と共に手に刻まれている。私の場合は20歳と35歳と出ていた。20歳は啓示的なメッセージを受け取ったとき、35歳は目に見えない世界への入り口に立ったときで、どちらも人生の目的へと太く通じる出来事であった。どんぴしゃり。

次に、問題の結婚線。一瞬緊張した。

ひよこさんは、とても柔らかい優しい声で「23歳から24歳のときに、結婚してもよかった人がいましたね」と言った(ちなみに結婚したのは29歳のとき)。

えっ?その年齢のとき、私には付き合っている人はいなかったけど・・・。

おかしいなあと思いながら寝て、朝起きた時に「あっ!」と声を上げそうになった。

大学を卒業して就職した会社の同僚で、とても気の合う人がいた。漫画「うる星やつら」のあたるに似ていたので、いつしか他の同僚から「あたる」と呼ばれるようになり、私もそう呼んでいた人。

彼は営業課で私はシステム課。職場はビルの向こうとこっちで離れていたが、彼はよく私を誘ってくれ、退社後、二人でお茶を飲みに行ったり、食事をしたり、コンサートに行ったり、週末もよく会っていた。今思い返せば、それは23歳のときのことであった。

当時、新卒の新入社員は、男女合わせて23人だった。いつもみんなでつるんでいたので、上司や先輩からは「新人類」と呼ばれ、「ここは仲良しクラブじゃない、社会人としての自覚を持て!社会に出れば、同期だってみんな競争相手なんだー!」と先輩にカツを入れられたこともあったが、そんなことお構いなし。退社後、みんなで食べに行ったり遊びに行ったりと、本当に仲がよかった。

私にとって、あたるはその延長線上にいた。一緒にいて何の違和感も感じない、完全に安心できる相手だった。

しかし、それは長くは続かなかった。私は職場の仕事が自分に合わなくて病気になったため、入社1年後に辞職した。それがきっかけで、あたるとは以前ほど会わなくなった。それから2年後の26歳のとき、私はアメリカに留学。その年、あたるは家業を継ぐため退職して、ほどなく結婚した。

それであたるとのストーリーは終わりのはずなのだが、実は、彼はつい最近まで、しばしば私の夢に登場していた。しかも、彼が出てくるときは、必ずと言ってよいほど恋愛感情が絡んでいた。あのときはなかった感情・・・。

と思っていたのは、浅い部分の私で、深い部分の私は、あたると強く繋がっていたことを知るに至った。この結婚線がきっかけで、今まで記憶の端っこに散らばって引っかかっていたパズルのピースが、一気に吸い寄せられて繋がった。

彼だけが私を「じゅんちゃん」と呼んでくれていた。これは子供の頃だけ呼ばれていた、聞くと心がポッとあったかくなる呼び名。中学・高校のときは専ら「くら」、大学時代には「くら」または「くらじゅん」。どちらも個人的にはあまり好きでない呼び方だった。

子供の頃の自分が本来の自分に一番近いとしたら、大人になってからでも、彼が唯一、意識の深い部分で本来の自分と繋がっていたのかもしれない。

誕生日に「たまたま」チケットが2枚あるから、と言ってコンサートに連れて行ってくれた。退社後食事に行った後は、必ず車で家の前まで送ってくれた。1時間半くらいかかる通り道のりを、夜遅いのに。

そこから彼の家まで戻るには、高速でも1時間以上かかり一般道路なら3時間近くかかるので、時間とお金を節約するために途中でサウナの仮眠室に泊まって、そこから出勤していたということを、後から知った。

会社のクリスマスパーティで、私が着ていたブラウスの襟が首のところでひっくり返っていたのを、後ろから黙って直してくれた。私が病気になったときは、私の課の同僚と一緒に、家までお見舞いに来てくれた。そして、私がアメリカに留学するときには、出発直前に空港に駆けつけて、私の両親と共にデッキで見送ってくれた。

夜遅く家の前まで送ってくれても、指一本触れたこともないし、付き合っているとか好きだとか、そういうことは一度も言わなかった。仲のよい友達・・・。

その彼と、今から12年ほど前帰郷した際に、7年ぶりに会って一緒に食事をした。アメリカに戻るその日、空港へ行く途中で会った。家業を継いで伝統職人になった彼。ちょっとフケて見えたので驚いたが、奥さんと家内別居状態だった。3人の子供がいて、一番下の子供はまだ2歳にも満たなかった。きっと様々な精神的苦労があったのだろう。奥さんとのすれ違いの話から、過去の話に移った。

「全然変わってないね」と彼が言った。

「私、あたるがすぐ結婚したからびっくりしたよ」

「じゅんちゃんが、アメリカに飛び立ったとき、『ああ、この人は本当に飛び立って行ってしまった』と思った。家のこともあったから早く結婚したかったし、そう思っていた時に、今の奥さんと出会ったんだ・・・でももし、あのとき俺とじゅんちゃんが結婚していたら」

その瞬間、カーッっと自分の頬が赤くなるのがわかった。ええっ!?そんなこと考えていたの!私たちは付き合っていたのか!と、心の中で慌てふためいた。

彼と結婚していたら、私の人生はどうなっていただろう。伝統職人の家へ嫁いで、同居。いや、もうそこまででも考えられない。あり得ない。

「じゅんちゃん、幸せ?」そう微笑んで聞いた彼の顔には、あのときの彼と、今の傷ついた彼が交錯していた。

食事だけのつもりだったのに、時間があるからと言って、結局、彼は空港まで送ってくれた。最後に、お互い国は離れていても頑張ろうねって力強く握手して、私は保安検査場へと歩き始めた。すると、後ろから追うように、彼の声が飛んできた。

「だんなさんに優しくしてあげなよ!」

私は振り返って、アッカンベーをした。

結婚してもよかった相手と、結婚した相手。

あたると夫には、大きな共通点がある。

どちらも、私を一人の人間として尊重してくれ、それとない形で優しく包んでくれる。ある感謝の念が沸き起こった瞬間、夫とあたるは固体としては異なるが、同じ種類の魂として重なった。

私を支えてくれる魂。

見えている世界の裏側にある見えていない世界が、心の目に浮かんでくる。26歳のあの日、空港での見送りを境に、私とあたるの道は離れた。あたるは家業を継いで結婚し、私は、やがて夫と出会うきっかけとなるアメリカへ。あのとき、あたるから夫へバトンタッチがあった。

結婚線が語ったストーリーは、私を促す。

だからこそ、今を大切に生きなければ。

0 件のコメント: