2008年7月20日

すべての責任をとる

先日、友人宅に立ち寄った。返さなければならないカギがあったが、その日たまたま近所まで行ったのでついでに立ち寄って、お留守ならカギを裏口のマットの下にでも置いておこうと思った。

行ってみると、外からの家の様相がガラリと変わっており、私は一瞬立ちすくんでしまった。家の前の庭にあった20メートルほどの大きな松の木が根元から切られており、幹の下の部分は、暖炉の薪用に5つくらいにスライスされて転がっていた。少し前に話したときに、友人は木が日光を遮って家の中が暗いから、いっそ切ってしまいたいと言っていた。それを聞いた私には、邪魔だから切るという風に聞こえてショックで、そんなことしたら罰が当たるんじゃないかと思ったが、そんな心配をよそに、友人は職人を雇って本当にバッサリ切ってしまったのであった。

ああ、ついにやってしまったか・・・と思いながら裏口へ行ってみると、友人は留守だったが、中からご主人が出てきた。会話は「昨日木を切ったんだよ」から始まり、ご主人は私を裏庭へと案内してくれた。ここも様相がガラリと変わっていた。ここにあったアカスギの大木もバッサリ。切られた幹が、死体のように転がっていた。

その無残な姿を見ながら、ご主人がぼそぼそと胸中を打ち明け始めた。このご主人は自然を愛するミュージシャン。彼は家にもっと光を通したいと考えながらも、木を切ることにためらいがあったが、奥さんがさっさと行動に移してしまったということで、木に申し訳なくて昨夜はよく眠れなかったということであった。おそらく泣いたのであろう、彼は赤い目をしていた。

20年ほど前にその家の元の持ち主が植えたと思われるそのアカスギは、若くて健康だったことが断面を見てもよくわかる。職人は、前庭とこの裏庭の木は、それぞれ間違った場所にあったから仕方がないと説明したそうで、それに加え、その2本とも、もともとこの土地の木ではなく、動物も住んでいなかったことがせめてものなぐさめだ、とご主人は言った。

この変わり果てた姿を前にして、私たちは立っていた。すぐにどこからともなくトンボが2~3匹やってきて、私たちの周りを飛び回った。最初、私の頭には「悪いことをした」というネガティブな考えが進入しようとしていたが、心はそうではなく、複雑な気持ちがこみ上げてきた。私は言った。

「この木に感謝の祈りを捧げましたか。とても悲しいことだけれど、感謝の気持ちがあれば、きっと木はわかってくれますよ」

そう話している間も、快晴の空から差してくる日の光は暖かく心地よい。今度は、トンボの後に白い蝶がヒラヒラと目の前に飛んできた。

「正直なところ、私も木を切るという行為は悪いと考えたのですがね、木が譲ってくれて、日の光が通されたと思うんですよ。ほら、こんなにエネルギーが変わった。すごく陽のエネルギーが増えましたね」

実は、エネルギー的なことに敏感な別の友人から、このお宅は陰のエネルギーが強すぎて洞穴状態になっていると聞いていた。そういう場所に住んでいる人は、どんどん内にこもるようになるという。

たしかに、このお宅に住んでいる友人は、その家に移った数年以上も前から仕事に強い不満がありながらも辞める勇気がなく、怒りと恐怖と不安を溜め込んで、どんどん状況が悪化している。今では完全に仕事に支配されて自由な時間はほとんど全くなく、お酒とタバコでストレスを発散させているように見受けられる。ではなぜ辞められないかというと、彼女は物質的な安定がないと心が安定しないようで、夫は当てにならず、彼女が働かなければ生活できないと固く信じているようであった。固定観念が邪魔をしているようで、わかっていても一歩前に進めない。彼女にとって、人生とは苦しみに満ちたものなのだろうか。

見るたびに状況が悪化して行く中で、そのうち病気になるのではないかとずっと彼女のことを気にかけていたが、私は最近しびれを切らして、それは彼女の問題だから私は関係ないと、気持ちの上での繋がりを切ろうとしていた。

カギのことがなかったら、この家へは来ていなかっただろう。ここに立っていると、木からも太陽からも、そしてトンボと蝶からも、すべてからメッセージが感じ取られた。

木を切るという行為は、彼女が抑えに抑えていた内面が爆発して出た行為なのだろう。彼女は、それほど光を渇望していた。

変容を象徴するトンボと蝶。エネルギーを大逆転させ、思い切って行動して変化を起こすとき。木は弱い人間の手で殺されてしまったけれど、それでも無条件の愛でそれを受け入れてくれた。いや、それは私たちがそこからどう生きるかで、私たちの中で生き続けることができるのである。

それは、宇宙の愛の循環の一部になること。

「本当の自分を生きなさい」

そのとき、私たちは感謝と愛に満ち溢れ、大いなる愛の循環の一部になれるのである。

木を切る決断をした時の彼女の気持ちはどんなだったろう。心根の優しい人なので、きっと苦しかっただろう。誰だって、生きているものを殺すことはしたくない。変わりたくても変われない、じれったい自分に道を示して欲しいがため、光を求めたのだろう。

実は、夜になって、この日体験したことは、私にとって強力なシンクロニシティだったことに気づいた。

ある方の日記の中で「他人を裁こうとするとき、それは自分の内面の浄化が必要なサインなのです」とあり、その朝、その言葉を読んだ瞬間、自分の中の何かが反応した。

それに加え、朝メールをチェックすると、双子の魂ともいうべき友人からメッセージが届いていた。彼女は、現在セラピストの立場から真実を探求しているが、自分の心をもっと掃除していこうと思ったということである。

このメールを再びその夜じっくり読んでみた。

先住民の教え「Life is all about responsibility(すべてに対して責任をとる)」について考えていた彼女のところに、ハワイに伝わる「ホ オポノポノ」(人の心を完全かつ健全な状態にするという秘伝)の伝導者・実践者であるヒューレン博士の本が舞い込んできたそうだ。
彼女がメールに含めてくれたその本の引用を私なりに理解すると、相手の問題を自分の誤った思考が具現化されたものとして謙虚に受け取り、問題の原因である誤った思考に対して謝り、そのことに気づかせてもらったことに感謝して、ゼロに戻して清めることから治癒が始まり、健全な状態に戻るということである。

これは、数年前に私が出会った The DNA of Healing という本に書いてあったことに共通する。人類は一番最初まで遡っていくとほんの一握りの数から始まり、その後子孫と言う形で次第に広がっていったが、その間に起こったあらゆる出来事に対する思考やそれにまつわる感情がすべてDNAと呼ばれる「記憶」として存在しており、何かのきっかけでそれが再生されるときに「症状」や「障害」として起こる。つまり、私たちはそれらすべての思考と感情をそれが意識にあるかないかに関わらず、共有しているのである。

この記憶である古いプログラムを認識してそれに感謝し、ゼロにしてからポジティブな状況をプログラムし直すことにより、つまり、現在自分が自分自身に対してそれをすることにより、その思考・感情を共有している過去・現在・未来のすべての人が癒されることになる、というものである。

「他人を裁こうとするとき、それは自分の内面の浄化が必要なサインなのです」

お風呂の中で、この言葉が再び浮かび、私はハッとした。私は友人の意固地な姿に失望して、繋がりを切ろうとしていたのだ。

「そうじゃないんだ、これは私の問題なんだ。現実的に食べていかなければならないし、物質的な安定は誰だって欲しい。恐怖もある。将来の約束は何もない。不安である。そう簡単に変わることは難しい。それでも変わりたい、変化を起こしたい、光が欲しい。これはすべて私の中にあるのである。それを彼女が体現しているのではないか」

また、木に対して申し訳なくて涙を流す彼女のご主人も、私の中にいた。

すると「謙虚に受け止めてすべてに感謝し、すべてを愛し、すべての責任をとり、執着を手放してゼロにすること」というホ オポノポノの教えが浮かんで来て、私は心の中で友人とそのご主人に謝って愛を送った。

Empathy という言葉が浮かんだ。en = 入れること、pathy = 感情で、辞書では「感情移入、共感、思いやり」とあるが、私なりの解釈は、他人の中に自分を見ること、自分の中に他人を見ることである。

それは、他人の問題を自分の人生に取り込んで、問題に振り回されることとは違う。それではネガティブに働くだけである。そうではなく、苦しみを認めて、それに感謝し、それを優しく手放すことである。

涙が出てきた。今私が取っているエッセンスのひとつは、「形あるものからの開放」である。そう、これは私の問題だった。言い換えれば、木は私のために死んだのである。

もう一度友人とご主人の顔を思い浮かべ、その魂に送った。そして木にも。

「ごめんなさい。ありがとう、愛しています」

そして翌日の今日、知らない翻訳会社から電話があり、「陰の浄化の瞑想」と題する瞑想のCDを翻訳する仕事が舞い込んできた。15年実務翻訳をやってきて、そこには情熱は感じられず、ここ数年の間、精神世界の翻訳ができたらいいなと、どれほど思っていても全く縁がなかったこと。それが、向こうからやってきた。

それも、よりにもよって「陰の浄化」とは。

宇宙さん、ニクイことをしてくれるなあ。

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