2007年12月21日

吾唯足知


吾れ唯足るを知る

しみじみとさせる言葉である。この字は円い手水鉢の四方に書かれており、京都竜安寺にあるそうだ。これをモチーフに木版画にした私の父の作品が家の玄関の壁に掛けてあるが、私はときどきこれを見てふと反省する。

吾れ唯足るを知る。ものが溢れるこの時代に、先進国では足りていない人はいないと思うが、私の頭にはそれとは対照的に、映画「千と千尋の神隠し」の「顔なし」が、人間の欲望を飲み込んで巨大な怪物になっていく姿が浮かんでくる。

食べ物に関しては、特にアメリカでは今や肥満と考えられる人が60%を超えてしまった。2人に1人を超える割合だ。運動量は減る一方なのに、食べる分量、つまりカロリー摂取量はうなぎ登りである。なぜそれほど食べるのか。そして、食べておいて、一方でダイエットに躍起になっているのはおかしい。どこか狂っている。

食べ物だけではない。企業は飽くなき利益追求に躍起となり、金儲けのためなら環境を破壊することも、健康を脅かす製品を作ることも、人間を奴隷化することも平気である。

人間はいつしか傲慢になってしまった。

分相応であることは、それほど難しいことであろうか。

人間の欲望は恐ろしい。ある一線を超えてしまうと雪だるま式になり、全てを飲み込んでしまう、そんな感じがする。

足ることを知る人間は、どんな人でだろうか。こう考えたときに、ただそこにいるだけで幸福感に包まれ、調和のとれた穏やかな人、感謝の気持ちに溢れた人の姿が浮かび上がる。

さて、「足りる」というのは主観的なことで、文明や経済の発達と比例しているわけではない。

地元の新聞に、アフリカから移民として来た一人の女性の記事があった。この女性は自分が後にしてきた町の女性や子供の教育を支援するために、アメリカで働いて稼いだお金を毎月送金しているそうである。

このアメリカでは、飽きたらすぐに捨て、新しい物を買い求めるのが普通である。物質に埋もれ、それでももっともっと欲しいと買い続ける。彼女が言った。「アメリカ社会は Do you want it? (欲しいから買う) の社会」

しかし、彼女は子供の頃から何か欲しいと思ったときに、きまって母親がこう尋ねたという。Do you need it? そのため、本当に必要な物しか買わないことが常識となって身に付いたそうだ。

この言葉にハッとさせられた。私も「欲しい」から買ったものに埋もれて、本当に必要なものはごくわずか。物が多すぎて、家の中が片付かないのが現状である。見るだけでストレスになるほど物を溜めておいて、それでシンプルな生活がしたいと思っているのは、とても身勝手で利己的な考え方であると反省した。Do you need it? そう自分に聞いてひとつひとつ整理すると、残るのはごくわずかであろう。

人は心が満たされていない分だけ、物で満たそうとするのだろうか。年に一回巡ってくるクリスマスショッピングのこの時期、特にアメリカでは家族の行事なので、義理も重なってあの人にこの人にもと、買い物は儀式化する。そして、クリスマスが過ぎるともらったけれど要らないものが行き場をなくす。今年は景気が後退しているため、買い物客の懐は少し固いと言われているが、私が見る限りどこの店も賑わっている。

飽和状態を超え、消化不良になっている私たち。特効薬はこの言葉。
「Do you need it? それは本当に必要?」

物だけで心は満たされないことに早く気づき、分相応にわきまえないと、大きなしっぺ返しが来ることになる。いや、もうそれは始まっている。今ここにこうして生かされているからこそ、できることがたくさんある。それがどれほど素晴らしいことか。何不自由ない生活ができる今の私たち。吾れ唯足るを知れば、欲望というぜい肉がとれ、体も心も健全になれる。

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